念仏は、弥陀に救い摂られたお礼
2012.06.30
2012年6月30日(土) 70.4kg 20.4%
なんでもかんでも、かぶりつきます。。。(><)
=== 今日の一日一訓 ===
難思の弘誓は、難度海を度する大船
無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり
(親鸞聖人)
人はなんのために生まれ、生きているのだろうか。
なぜ苦しくても自殺してはならぬのか。
「人生の目的」 は何か。
親鸞聖人の答えは、ゆるぎなき確信と勇気を持って、
簡潔であざやかである。
「苦しみの波の絶えない人生の海を、明るくわたす大船がある。
その船に乗り、未来永遠の幸福に生きるためである」
「人生の目的」 をハッキリ明示された親鸞聖人の鮮やかな断言、
主著 『教行信証』 の冒頭のお言葉です。
(『なぜ生きる』 一万年堂出版より)
『正信偈』 親鸞聖人のみ教えを学んでいます。
唯能常称如来号
応報大悲弘誓恩
(唯能く常に如来の号を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし)
について、話を進めます。
お聞きしましょう。
よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。
★★★
★★★
「大悲弘誓の恩」 の 「大悲」 とは、阿弥陀如来の大慈悲心のこと。
「どんな悪人も、
必ず絶対の幸福に救い摂る」
という、弥陀の底無しのお慈悲のことであり、
蓮如上人は分かりやすく、こう教えられています。
「大宇宙の一切の仏方から 『救い難き者』
と見捨てられたのが私たちである。
そんな者を阿弥陀如来という諸仏の本師本仏がただお一人、
『私が助けよう』 と立ち上がられ崇高な超世の誓いを掲げ、
実現できる準備を完了されている」
親鸞聖人が 「大悲弘誓」 と言われているのは、
この阿弥陀如来の大慈悲心によって建てられた熱い誓い
「弥陀の本願」
のこと。
「弘誓」 (弘い誓い) とは、
約束の相手が広いからです。
弥陀は 「すべての人 (十方衆生)」 と誓約されています。
分け隔てがありません。
有名な 『歎異抄』 にも、
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」
とあるように、年齢や男女、貧富、健常者・障害者、肌の色など、
一切の差別のない偉大な誓願ですから、
「大悲弘誓」 と親鸞聖人は絶賛されているのです。
こちらが 「阿弥陀仏の本願」 です。
『大無量寿経』 の中に説かれています。
漢字36文字です。
この弥陀の大悲の弘誓によって、
絶対の幸福に救い摂られた人は必ず、
「この広大無辺な弥陀のご恩 (大悲弘誓の恩) に、
どう報いたらよかろうか」
と “仏恩報ずるおもい” が起きる。
その報恩について教えておられるのが、
「唯能く常に如来の号を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし」
この二行です。
「如来の号を称する」 とは、口で
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と念仏を称えることですから、意味はこうなります。
“弥陀に救い摂られた (他力の信心を獲た) 上は、
常に念仏して、弥陀の大恩に報いるのである”
続きはまた次回。
★★★
なんでもかんでも、かぶりつきます。。。(><)
=== 今日の一日一訓 ===
難思の弘誓は、難度海を度する大船
無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり
(親鸞聖人)
人はなんのために生まれ、生きているのだろうか。
なぜ苦しくても自殺してはならぬのか。
「人生の目的」 は何か。
親鸞聖人の答えは、ゆるぎなき確信と勇気を持って、
簡潔であざやかである。
「苦しみの波の絶えない人生の海を、明るくわたす大船がある。
その船に乗り、未来永遠の幸福に生きるためである」
「人生の目的」 をハッキリ明示された親鸞聖人の鮮やかな断言、
主著 『教行信証』 の冒頭のお言葉です。
(『なぜ生きる』 一万年堂出版より)
『正信偈』 親鸞聖人のみ教えを学んでいます。
唯能常称如来号
応報大悲弘誓恩
(唯能く常に如来の号を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし)
について、話を進めます。
お聞きしましょう。
よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。
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★★★
「大悲弘誓の恩」 の 「大悲」 とは、阿弥陀如来の大慈悲心のこと。
「どんな悪人も、
必ず絶対の幸福に救い摂る」
という、弥陀の底無しのお慈悲のことであり、
蓮如上人は分かりやすく、こう教えられています。
それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀に限りて、 「われひとり助けん」 という超世の大願を発して、われら一切衆生を 「平等に救わん」 と誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり。
(御文章二帖目八通)
「大宇宙の一切の仏方から 『救い難き者』
と見捨てられたのが私たちである。
そんな者を阿弥陀如来という諸仏の本師本仏がただお一人、
『私が助けよう』 と立ち上がられ崇高な超世の誓いを掲げ、
実現できる準備を完了されている」
親鸞聖人が 「大悲弘誓」 と言われているのは、
この阿弥陀如来の大慈悲心によって建てられた熱い誓い
「弥陀の本願」
のこと。
「弘誓」 (弘い誓い) とは、
約束の相手が広いからです。
弥陀は 「すべての人 (十方衆生)」 と誓約されています。
分け隔てがありません。
有名な 『歎異抄』 にも、
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」
とあるように、年齢や男女、貧富、健常者・障害者、肌の色など、
一切の差別のない偉大な誓願ですから、
「大悲弘誓」 と親鸞聖人は絶賛されているのです。
こちらが 「阿弥陀仏の本願」 です。
『大無量寿経』 の中に説かれています。
漢字36文字です。
この弥陀の大悲の弘誓によって、
絶対の幸福に救い摂られた人は必ず、
「この広大無辺な弥陀のご恩 (大悲弘誓の恩) に、
どう報いたらよかろうか」
と “仏恩報ずるおもい” が起きる。
その報恩について教えておられるのが、
「唯能く常に如来の号を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし」
この二行です。
「如来の号を称する」 とは、口で
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と念仏を称えることですから、意味はこうなります。
“弥陀に救い摂られた (他力の信心を獲た) 上は、
常に念仏して、弥陀の大恩に報いるのである”
続きはまた次回。
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