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死んだらみんな極楽?

2012年8月14日(火)    70.4kg  21.0% 



Yu-14Aug2012-1

ワイルドだろ~!? (><)



=== 今日の一日一訓 ===


 一々の花のなかよりは
 三十六百千億の
 光明照らして朗らかに
 至らぬ処はさらになし
 (親鸞聖人)


 大輪の妙華が心に開いた、親鸞聖人の述懐です。
 その無数の花びらから漂う香気は、大衆を魅了してやみません。

 ところが、親鸞聖人の教えを知る人は非常に少ない。
 人類にとって、これほどの甚大な損失はありません。

 少しでも親鸞聖人の教えに触れていただき、知っていただければ。
 そう思って、日々書き続けています。





『正信偈』 親鸞聖人のみ教えを学んでいます。



浄土真宗の布教使などの話を聞いていますと、
どんな人でもただ念仏さえ称えていれば、
死んだら極楽へ往けるように教えられますが、
親鸞聖人は、本当にそんな簡単に極楽へ往ける
と教えられたのでしょうか。

お聞きしましょう。


よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。

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どんな人でも念仏さえ称えていれば、
死ねば簡単に極楽へ往って仏になれるのが、
浄土真宗のようい教えられています。

そのために世間では、
死んだ人をみんな仏といって
何の不審も抱きません。

しかし、これは浄土真宗でもなければ、
仏教でもありません。



仏説を説かれた釈尊は、
唯一の真実経 『大無量寿経』 の中に、

 「易往而無人」
  (いおうにむにん)

と教えられていることでも、それは明らかです。

「易往而無人」 とは、

 「往き易くして人無し」


ということです。

これは、釈尊が阿弥陀仏の浄土往生のことを説かれてから、

 「阿弥陀仏の極楽浄土へは、
  往き易いけれども、
  往っている人が無い」


と、一見、おかしなことと思われることをおっしゃっています。


なぜ、おかしいかといいますと、
極楽浄土へ往くことが易しいのならば、
極楽へ往っている人が無い
と言われることがおかしいでしょう。

極楽浄土へ往っている人が無い
と言われるのが本当なら、
往き易い極楽だと言われるのは
おかしいことになります。

この釈尊のお言葉について、
親鸞聖人は 『尊号真像銘文』 に、
こう解説されています。


「易往而無人」 というは、 「易往」 はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生まるること疑いなければ往き易きなり。 「無人」 というは、ひとなしという、ひとなしというは、真実信心の人はありがたき故に実報土に生まるる人稀なりとなり。

(尊号真像銘文)




 “阿弥陀仏の極楽へは 「往き易い」
  と釈尊が言われているのは、
  いま阿弥陀仏に救われている人のことである。

  そんな人は、弥陀のひとり働きで往く世界が極楽だから、
  「易い」 という言葉もいらぬ易さである。
  「人なし」 と言われたのは、
  現在、阿弥陀仏の救いに値っている人が稀だから、
  極楽に往く人は稀なのである。”


蓮如上人は、これを、


これによりて、 『大経』 には 「易往而無人」 とこれを説かれたり。この文の意は、 「安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば浄土へは往き易くして人なし」 と言えるは、この経文の意なり。

(『御文章』 二帖)




 “平生に、弥陀に救い摂られた人は、
  極楽浄土へは 「往き易い」 けれども、
  今、救われている人が少ないので、
  釈尊は 「往き易くして人なし」 と言われているのである。”



親鸞聖人も蓮如上人も、

 「阿弥陀仏の極楽浄土へ往き易いのは、
  真実信心を獲ている人のことである。
  その真実の信心を獲ている人
 (阿弥陀仏に救われている人) が
  はなはだ稀だから、極楽へ往っている人が少ないのだ」


と、釈尊がおっしゃっていることを
明らかにされています。

誰でも彼でもが、
死にさえすれば極楽へ往けるのではないのです。

存覚上人も、次のように教えておられます。


ひとなしというは、よくおしうる人もなく、よくきく人もなきなり

(浄土見聞集)




 “釈尊が、弥陀の極楽へ 「往く人が少ない」
  と言われているのは、
  平生の弥陀の救いを教える人もなく、
  いま救われた人も稀だからである”


平生の弥陀の救いを教える知識もいないし、
真剣に聞き抜く人もいないから、
極楽へ往く人は、雨夜の星なのである
と道破されています。


浄土真宗は、平生業成、現生不退、報土往生、弥陀同体と、
現当二益の幸福をうる勝法でありますが、
その真実の教えが説かれず、無力になり、
やりっぱなしが他力のように話されています。

これでは、平生の弥陀の救いなど夢のまた夢で、
この世から地獄です。

平生に弥陀の不可思議の願力によって、
この世の地獄が不思議と光明の広海に転じなければ、
死んで極楽に往くことも、仏になることもできないのです。


親鸞聖人の花びら


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テーマ : 気になる!
ジャンル : ライフ

Comment

No title

オリンピック終わりましたね・・・といっても、私にはそんなに興味はなく、見る元気もないですが・・・すこし見てましたが・・・なでしこジャパンの監督の考えが素晴らしかったです・・・予選リーグを1位通過できるのにわざと2位通過したのは勇気ある決断だったと思います。選手たちを信じ、決勝戦まで行くことを最終目標にしていたのは、本当に目先にとらわれず先を見通す素晴らしいことだと思いました。。。

だけど、オリンピックって、なんで、みんな、ああやって競争するのか、私にはついていけません・・・・人間は競争心や向上心がないとダメなんでしょうか?今のままじゃダメなんでしょうか?
(蓮舫議員の2位じゃダメなんでしょうかに似ているかもしれません)
何故、浄土に行かなきゃいけないのか、何故幸福を求めなきゃいけないのか、、、
人間は幸福を求めるようにできているんでしょうけど、幸福というエサを目の前に出されて必死に走る馬のように、なんだか、悲しくなってきます・・・

No title

みゅうさん

面白いことを言われますね。

ならばみゅうさん、あなたは今のままでいいのですね?

浄土に行きたくなければ、行く必要はありません。
幸福を求めたくなければ、求める必要はありません。
今のままでいいのであれば。

自己矛盾してること、わかりますか?

今の苦しみを逃れたいのでは?
今の苦しみを解決したいので?

苦しみから逃れたい、解決したい、という気持ちは、
幸せになりたい、という気持ちそのものです。

向上心も、競争心も、とことん追求するのも、
そうすれば、幸せになれる、と思うからでしょう。

自殺する人も、自殺すれば今の苦しみから逃れられる、
死ねば楽になれる、と思うからでしょう。

すべての行為は幸せを求めてのことです。

悲しくなるのは、どこまで求めても求まらないからでしょう。
この世に完成のある道はないですから。
科学、医学、芸術、スポーツ、武道、・・・。
どの道も、これで完成、求まったということはありません。
ゴールのない円周トラックをひたすら走るランナーのようなものです。

それがわかるから悲しくなるのでしょう。
それがわかる、ということは凄いことです。

完成のあるのは、仏教・弥陀の救いだけです。
「平生業成」
生きている今、人生の大事業が完成する教えです。
親鸞聖人の教え(弥陀の救い)には、決勝点があります。
求まったということがあります。
完成があります。

完成のある、人生究極の目的を求めましょう。

No title

お釈迦様もおっしゃってますが、欲には限りがないです。
快楽幸福を求めていたらきりがない。。。
だけど、苦痛苦悩を取り除くのはきりがあります。
ゼロにすることで終わります。

苦しみや悲しみ

楽しさや幸せ
は同一線上にはないと思います。。。

同一線上にあると思っているとしたら、それは、嫌な事や悲しいことを楽しさや快楽で紛らしているのと同じでしょうね・・・

私の願いは、幸せをもとめているのではなく、ただ、石のように苦を感じることがなければそれでいい・・・ただそれだけです・・・

No title

みゅうさん

石になれたらいいですが、なれないですよ。。。

死んだら楽になれる、と思って自殺するのでしょうが、
死んでも楽にはなれません。
さらに苦しい世界に飛び込んでいくことになるのに。。。

さておき。
「幸せ」 定義にずれがあるようです。


みゅうさんは、「幸せ」 = 「欲を満たす、快楽」
と定義されているようです。そうですね?

みゅうさんの「願い」は、
苦を感じることがないこと、ですね?
それが、みゅうさんの求めている 「幸せ」 「願い」。

おっしゃる通り、欲にはきりがありませんから、
どこまでいっても満たされることはありません。
欲を満たしても、幸せにはなりません。

「欲を満たす = 幸せ」 ではない、ということです。
「快楽 = 幸せ」 ではない、ということです。

確認のため。


最後に。

「苦痛苦悩を取り除くのにはきりがあり、
 ゼロにすることで終わる」


その通りです。
では、どうやって苦痛苦悩をゼロにしましょうか?

それ一つが仏教の目的です。
「抜苦与楽」 が仏教の目的です。
(快楽、欲楽ではありません。念のため。)

ちなみに、弥陀に救われても、
悪因悪果、自因自果の因果の道理にしたがって、
苦しみ悩みはやってきます。

煩悩は減りもしませんし、無くなりません。
まったく変わりません。

でも、その苦しみ悩みが一切障りになりません。
苦しみが苦しみとならない、ということ。
転悪成善となり、逆に喜びのタネとなります。

「煩悩即菩提」 とも言われます。
「罪障功徳」 とも言われます。

それが、弥陀に救われた世界 「無碍の一道」 です。
絶対の幸福です。

No title

幸せについてはあまり興味ないですが(というかそれどころではないのですが)、苦しみさえなくなれば、本当に浄土ですね・・・行ってみたい・・・本当に、苦しみがなければ、過去の苦しかった思い出も含めて、苦悩が何もかもすべてなくなってくれるなら。。。

Re: No title

みゅうさん

コメント返し、早!(笑)

私はシンガポールゆえ、明日も仕事なので、このコメントを最後にして寝ますね。
続きがあれば、また明日。

幸せに興味がないって?
「苦悩がすべて何もかもなくなってくれるなら」
それがあなたの 「幸せ」 なのでしょうに。。。
この頑固おやじのわからんちん!! (笑)

苦しみのない世界が極楽浄土です。
それは死後ではなく、今生でハッキリします。
ぜひ、確かめて下さい。

No title

西王子さんの御意見も参考になります。。
私は小さい頃、しょっちゅう親に往復びんたを何回も何回も受けていたのですが、その間、小さい私は抵抗する術はなく、ただただ親の気の済むのをひたすら待って耐えてました・・・
そういうときにも念仏していると、晴れ晴れとした気持ちで、痛みを感じずに、虐待を忍耐できるのでしょうか?

No title

みゅうさん

> そういうときにも念仏していると、晴れ晴れとした気持ちで、痛みを感じずに、虐待を忍耐できるのでしょうか?

念仏したからといって、痛みを感じず、
晴々した気持ちで、虐待を忍耐できるものではありません。

念仏は、弥陀に救われたお礼で称えるものです。

弥陀に救われても、
たたかれれば痛いですし、
虐待されれば辛いです。

弥陀に救われる前(信前)も、救われた後(信後)も、
そこは何も変わりません。

では、何が変わるのか。
心が大きく変わります。

往生一定の大安心・大満足の金剛心は、
一切ぶれず、一切障りになりません。
それが 無碍の一道、絶対の幸福 です。

No title

西玉子さん

お久しぶりです。
コメントありがとうございます。

とてもやさしいお言葉、ありがとうございます。
Secre

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いつも応援有難うございます

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プロフィール

JJSG

Author: JJSG
男 173cm 血 O型
1972年7月29日生
(42歳)

福岡県出身
愛知県一宮市で育つ
シンガポール居住を経て、
(2007.9~2013.3)
現在は、日本在住
(名古屋近郊)
職業: 平凡なEngineer

スポーツ大好き♪
(野球、バドミントン)
カラオケ大好き♪
(演歌最高!)

父は、鹿児島県出身。
母は、福岡県出身。
共に九州、浄土真宗門徒。

私も、仏教、親鸞聖人の教えを、少しずつ学んでいます。

禁煙 2009年1月4日~
半日断食 2009年7月~
(すっかりサボり気味。。。)
体重:
MAX 81.4kg 理想 63kg

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