断言 苦悩の根元は 「無明の闇」
2012.09.22
2012年9月22日(土) 70.4kg 20.5%

義母と義妹がシンガポールに来ました。
JJSG妻の子育てのお手伝いをしてくれます。
とても有り難く、感謝の気持ちでいっぱいです。
上の写真は、5月以来の久々の対面で、
大泣きしてママにすがりつく Yu です。(笑)
=== 今日の一日一訓 ===
もし一週間の生涯でささげるべきことならば、
100年をも捧げるべきである。
「あなたの命が一週間となったとき、
やるべき価値のあることは、
人生のすべてをかけてもやるべきだ」
(ブレーズ・パスカル)
(17世紀 フランス 化学者 哲学者 宗教思想家)
『正信偈』 親鸞聖人のみ教えを学んでいます。
人生を苦に染める元凶は何か。
親鸞聖人の解答は、簡明だ。
「決するに、疑情をもって所止となす」
(『教行信証』)
よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。
★★★

★★★
「疑情ひとつ」 と決断される。
「決するに」 「所止となす」 の断言には迷いがない。
苦悩の解決ひとつを説く親鸞聖人だから、
こんな明言が極めて多い。
「苦悩の根元は、これひとつ」
と断定される 「疑情」 とは、なにか。
死後どうなるか分からない 「無明の闇」 のことである。
苦悩の根元を 「無明の闇」 といわれて、
「なるほど」 とうなずく人は、いないといってもよかろう。
「えっ!? それ、なに!?」 と驚く人、
「聞いたことも、読んだこともないよ」 と、
みんなソッポを向くにちがいない。
自己と向き合い、厳しく見つめている人でも、
自分を悩ますものは、欲望や腹立ち、
ねたみそねみの 「煩悩」 だと思っているのではなかろうか。
文字通り 「煩わせ悩ませるもの」 と書いて、
「煩悩」 というからである。
「明日ありと 思う心の 仇桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは」
4歳で父君に、8歳で母君に死別されたといわれる親鸞聖人が、
つぎはオレの番だと死の影に驚き、出家のときに詠まれたもの、
といわれれば納得できる。
9歳で仏門に入って20年、
仏教の中心地・比叡山での日々は、
まさに煩悩との格闘だった。
『歎徳文』 という古書に、生々しい苦闘が記されている。
静寂な夜の山上で、修行に励まれる親鸞聖人が、
ふと見下ろす琵琶の湖水は、月光に映えて鏡のようだ。
「あの湖水のように、なぜ、心が静まらぬのか。
思ってはならぬことが思えてくる。
考えてはならぬことが浮かんでくる。
恐ろしい心が吹き上がる。
どうしてこんなに、欲や怒りが逆巻くのか。
この心、なんとかせねば・・・・・・」

平静な湖水にくらべて渦巻く煩悩に泣く親鸞聖人が、
涙にくもる眼を天上にうつすと、月はこうこうと冴えている。
「あの月を見るように、なぜ、さとりの月が見れぬのか。
みだらな雲がわき上がり、心の天をおおい隠す。
こんな暗い心のままで、死んでいかねばならぬのか」
吸う息吐く息に、永遠の苦患に沈む自己を知られて、
居ても立ってもおれぬ不安に襲われる。
こんな一大事を持ちながら、どうして無駄な時を流せよう。
はやく俗念を投げ捨てて、この大事を解決せねば。
一刻の猶予も、親鸞聖人にはなかった。
この一大事、どこかに導きくださる大徳はないのか、
高僧ましまさぬかと、思い出深き比叡をあとに、
泣き泣き下山された親鸞聖人の、苦衷を書かれたものである。
まもなく、そんな親鸞聖人が、
「苦悩の根元 “無明の闇” を断ち切って、
歓喜無量のいのちを与える弥陀の誓願」
を説く、法然上人にめぐり会われるのだ。
その驚きとよろこびは、余人の想像を絶するものであったにちがいない。

★★★


義母と義妹がシンガポールに来ました。
JJSG妻の子育てのお手伝いをしてくれます。
とても有り難く、感謝の気持ちでいっぱいです。
上の写真は、5月以来の久々の対面で、
大泣きしてママにすがりつく Yu です。(笑)
=== 今日の一日一訓 ===
もし一週間の生涯でささげるべきことならば、
100年をも捧げるべきである。
「あなたの命が一週間となったとき、
やるべき価値のあることは、
人生のすべてをかけてもやるべきだ」
(ブレーズ・パスカル)
(17世紀 フランス 化学者 哲学者 宗教思想家)
『正信偈』 親鸞聖人のみ教えを学んでいます。
人生を苦に染める元凶は何か。
親鸞聖人の解答は、簡明だ。
「決するに、疑情をもって所止となす」
(『教行信証』)
よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。
★★★



★★★
「決するに、疑情をもって所止となす」
(『教行信証』)
「疑情ひとつ」 と決断される。
「決するに」 「所止となす」 の断言には迷いがない。
苦悩の解決ひとつを説く親鸞聖人だから、
こんな明言が極めて多い。
「苦悩の根元は、これひとつ」
と断定される 「疑情」 とは、なにか。
死後どうなるか分からない 「無明の闇」 のことである。
苦悩の根元を 「無明の闇」 といわれて、
「なるほど」 とうなずく人は、いないといってもよかろう。
「えっ!? それ、なに!?」 と驚く人、
「聞いたことも、読んだこともないよ」 と、
みんなソッポを向くにちがいない。
自己と向き合い、厳しく見つめている人でも、
自分を悩ますものは、欲望や腹立ち、
ねたみそねみの 「煩悩」 だと思っているのではなかろうか。
文字通り 「煩わせ悩ませるもの」 と書いて、
「煩悩」 というからである。
「明日ありと 思う心の 仇桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは」
4歳で父君に、8歳で母君に死別されたといわれる親鸞聖人が、
つぎはオレの番だと死の影に驚き、出家のときに詠まれたもの、
といわれれば納得できる。
9歳で仏門に入って20年、
仏教の中心地・比叡山での日々は、
まさに煩悩との格闘だった。
『歎徳文』 という古書に、生々しい苦闘が記されている。
定水を凝らすといえども、識浪しきりに動き、心月を観ずといえども、妄雲なお覆う。しかるに、一息つがざれば、千載に長うゆく。なんぞ、浮生の交衆をむさぼって、いたずらに仮名の修学に疲れん。すべからく勢利をなげうって、ただちに出離をねがうべし。
(『歎徳文』)
静寂な夜の山上で、修行に励まれる親鸞聖人が、
ふと見下ろす琵琶の湖水は、月光に映えて鏡のようだ。
「あの湖水のように、なぜ、心が静まらぬのか。
思ってはならぬことが思えてくる。
考えてはならぬことが浮かんでくる。
恐ろしい心が吹き上がる。
どうしてこんなに、欲や怒りが逆巻くのか。
この心、なんとかせねば・・・・・・」

平静な湖水にくらべて渦巻く煩悩に泣く親鸞聖人が、
涙にくもる眼を天上にうつすと、月はこうこうと冴えている。
「あの月を見るように、なぜ、さとりの月が見れぬのか。
みだらな雲がわき上がり、心の天をおおい隠す。
こんな暗い心のままで、死んでいかねばならぬのか」
吸う息吐く息に、永遠の苦患に沈む自己を知られて、
居ても立ってもおれぬ不安に襲われる。
こんな一大事を持ちながら、どうして無駄な時を流せよう。
はやく俗念を投げ捨てて、この大事を解決せねば。
一刻の猶予も、親鸞聖人にはなかった。
この一大事、どこかに導きくださる大徳はないのか、
高僧ましまさぬかと、思い出深き比叡をあとに、
泣き泣き下山された親鸞聖人の、苦衷を書かれたものである。
まもなく、そんな親鸞聖人が、
「苦悩の根元 “無明の闇” を断ち切って、
歓喜無量のいのちを与える弥陀の誓願」
を説く、法然上人にめぐり会われるのだ。
その驚きとよろこびは、余人の想像を絶するものであったにちがいない。

★★★



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