「自力の信心」 と 「他力の信心」
2014.07.02
2014年7月2日(水) 73.4 kg 20.7 %
=== 今日の一日一訓 ===
運命は、これから、いくらでも変えていける
うまくいかないのは、運が悪いからではありません。
運命を決めるのは、あなた自身の行いです。
親鸞聖人のみ教えを学んでいます。
「法然上人の人生の目的と、われわれの目的は異なって当たり前。
智恵第一と称讃されるお師匠さまと、同じ目的がどうして果せようぞ」
と、人生の目的を、 “人それぞれ” と主張する聖信房・勢観房・念仏房たちと、
「人生の目的は、法然上人も親鸞もまったく同じ。
それは智恵や学問、経験などが同一ということではない。
人として生まれてきた目的のことを言っているのだ」
と、人生の目的を、 “人それぞれ” という主張を認めぬ親鸞聖人とで、
真っ向から対立した 「信心同異の諍論」 (しんじんどうい の じょうろん)。
前回、法然上人の判決文(原文)をご紹介して終わっていました。
法然上人の判決文とその意味から、今回お聞きしましょう。
よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。
★★★

★★★
信心が同一でないのは、 「自力の信心」 であるからだ。
そのものズバリの法然上人の言葉に驚く。
「自力の信心」 とは、やがて必ず崩れ去る、
智恵や学問、経験などで固めたものをいうからだ。
それにしても世の中なんと不公平なことか。
賢い人、愚かな人、善い人、悪い人、背の高い人、低い人、
同じ人はないように、学問や才能、経験なども、千差万別、億差兆別である。
それらのもので 「間違いない」 と信じ固めた 「自力の信心」 に、
万人共通などあろうはずがない。
昔、飛騨の高山と、伊豆の大島から江戸見物に行った男らが、
同宿して争っている。
「断然、太陽は山から出て、山へ入るものだ」 と、高山の男は言う。
「バカを言え。太陽は海から出て、海へ入るもの。
この目でいつも見ていることだ」
と、一歩も引かないのは大島の男。
そこへ宿屋の主人がやって来て、
「そりゃ、お二人とも大間違いじゃ。
太陽は屋根から出て屋根へ入るもの」
と笑ったという。
同じ時計の音でも、金まわりのいい人には、
「チョッキン、チョッキン、貯金せよ」 と聞こえるそうだが、
借金に追われている者には、 「シャッキン、シャッキン、あの借金どうするんだ」
と時計までが催促するという。
一つの音でも思いが違うと受け取り方が変わるように、
各人各別の智恵や才能、経験で固めた自力の信心は、
異なるのが特徴なのである。
「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。
すなわち、智慧各別なるが故に信また各別なり」
一般に 「信心」 といわれているのは 「自力の信心」 だから、
“信心は人それぞれ” が常識であり、みんなが同一になれる信心など
誰も知らない。 想像もできないことなのである。
同様に万人共通の人生の目的 (信心) など、
あるはずがないと考えるのは決しておかしくないのだ。
良識を自負する人ほど 「人それぞれ」 「みんなちがってみんないい」
というのも納得できよう。
コメント下さった癌ダムさんも、ブログから分かる通り、
非常に優れた知識人であり、常識人であり、良識ある人ですから、
「生きる目的は自分で作るもの」 と思うのも納得です。
ところがここで、 万人共通の驚くべき 「信心」 の厳存 を、
法然上人は喝破されるのだ。
みずからのことを 「源空」 (げんくう) と言い、
親鸞聖人が 「善信房」 (ぜんしんぼう) と名乗られていたときのことだから、
つぎのように言われている。
「他力の信心は、善悪の凡夫、
ともに仏の方よりたまわる信心なれば、
源空が信心も善信房の信心も更にかわるべからず。
ただ一なり」
万人が同一になれる信心とは、 「他力の信心」 のことである。
「他力の信心」 とは、智恵や才能、学問や経験、善人悪人などとは関係なく、
阿弥陀仏からたまわる信心であることを、まず明示して、こう断定されている。
「慈悲平等の、仏からたまわった信心に、相違あろうはずがない。
法然の信心も親鸞の信心も、ともに他力の信心、まったく違いはない。
同じである」
テレビ局が同じなら、各家庭のテレビが、大・小、新・旧、異なっても、
放送内容が変わるはずがない、のにたとえられよう。
「他力の信心」 が語られるとき、
「獲得する」 とか 「獲る」 「得た」 などと表現されるのも、
阿弥陀仏からたまわる信心 だからである。
誤りやすいところを最後に、こう懇ろにさとされる。
「この法然の信心は、智恵や学問などとは関係ない他力の信心なのだ。
自力の信心の人は私の参る浄土へは往けないであろう。
“自力の信心” と “他力の信心” の違いを、
よくよく心得ていなければならないよ」
苦悩の根元が打ち破られて
“よくぞ人間に生まれたものぞ”
と、人生の目的が達成できるのは、
ひとえに弥陀よりたまわる信心による、と知らされる。
論争までして勇敢に、 「他力の信心」 の世界を露出された親鸞聖人は、
つぎのようにも記される。

「他力の信心を獲得 (ひとしく廻入) し、人生の目的が完成すれば、
万川の水が海に入って一味になるように、才能の有無、健常者・障害者、
人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、すべての人が、
同じよろこびの世界に共生できるのだよ」
人生の目的は万人共通である、
と説く親鸞聖人の明白な言葉であろう。
★★★

=== 今日の一日一訓 ===
運命は、これから、いくらでも変えていける
うまくいかないのは、運が悪いからではありません。
運命を決めるのは、あなた自身の行いです。
親鸞聖人のみ教えを学んでいます。
「法然上人の人生の目的と、われわれの目的は異なって当たり前。
智恵第一と称讃されるお師匠さまと、同じ目的がどうして果せようぞ」
と、人生の目的を、 “人それぞれ” と主張する聖信房・勢観房・念仏房たちと、
「人生の目的は、法然上人も親鸞もまったく同じ。
それは智恵や学問、経験などが同一ということではない。
人として生まれてきた目的のことを言っているのだ」
と、人生の目的を、 “人それぞれ” という主張を認めぬ親鸞聖人とで、
真っ向から対立した 「信心同異の諍論」 (しんじんどうい の じょうろん)。
前回、法然上人の判決文(原文)をご紹介して終わっていました。
法然上人の判決文とその意味から、今回お聞きしましょう。
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★★★



★★★
信心の、かわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智慧各別なるが故に信また各別なり。
他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏の方よりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も更にかわるべからず。ただ一なり。我が賢くて信ずるにあらず。
信心の、かわりおうておわしまさん人々は、我が参らん浄土へは、よも参りたまわじ。よくよく心得らるべき事なり。
(『御伝鈔』)
信心が同一でないのは、 「自力の信心」 であるからだ。
そのものズバリの法然上人の言葉に驚く。
「自力の信心」 とは、やがて必ず崩れ去る、
智恵や学問、経験などで固めたものをいうからだ。
それにしても世の中なんと不公平なことか。
賢い人、愚かな人、善い人、悪い人、背の高い人、低い人、
同じ人はないように、学問や才能、経験なども、千差万別、億差兆別である。
それらのもので 「間違いない」 と信じ固めた 「自力の信心」 に、
万人共通などあろうはずがない。
昔、飛騨の高山と、伊豆の大島から江戸見物に行った男らが、
同宿して争っている。
「断然、太陽は山から出て、山へ入るものだ」 と、高山の男は言う。
「バカを言え。太陽は海から出て、海へ入るもの。
この目でいつも見ていることだ」
と、一歩も引かないのは大島の男。
そこへ宿屋の主人がやって来て、
「そりゃ、お二人とも大間違いじゃ。
太陽は屋根から出て屋根へ入るもの」
と笑ったという。
同じ時計の音でも、金まわりのいい人には、
「チョッキン、チョッキン、貯金せよ」 と聞こえるそうだが、
借金に追われている者には、 「シャッキン、シャッキン、あの借金どうするんだ」
と時計までが催促するという。
一つの音でも思いが違うと受け取り方が変わるように、
各人各別の智恵や才能、経験で固めた自力の信心は、
異なるのが特徴なのである。
「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。
すなわち、智慧各別なるが故に信また各別なり」
一般に 「信心」 といわれているのは 「自力の信心」 だから、
“信心は人それぞれ” が常識であり、みんなが同一になれる信心など
誰も知らない。 想像もできないことなのである。
同様に万人共通の人生の目的 (信心) など、
あるはずがないと考えるのは決しておかしくないのだ。
良識を自負する人ほど 「人それぞれ」 「みんなちがってみんないい」
というのも納得できよう。
コメント下さった癌ダムさんも、ブログから分かる通り、
非常に優れた知識人であり、常識人であり、良識ある人ですから、
「生きる目的は自分で作るもの」 と思うのも納得です。
ところがここで、 万人共通の驚くべき 「信心」 の厳存 を、
法然上人は喝破されるのだ。
みずからのことを 「源空」 (げんくう) と言い、
親鸞聖人が 「善信房」 (ぜんしんぼう) と名乗られていたときのことだから、
つぎのように言われている。
「他力の信心は、善悪の凡夫、
ともに仏の方よりたまわる信心なれば、
源空が信心も善信房の信心も更にかわるべからず。
ただ一なり」
万人が同一になれる信心とは、 「他力の信心」 のことである。
「他力の信心」 とは、智恵や才能、学問や経験、善人悪人などとは関係なく、
阿弥陀仏からたまわる信心であることを、まず明示して、こう断定されている。
「慈悲平等の、仏からたまわった信心に、相違あろうはずがない。
法然の信心も親鸞の信心も、ともに他力の信心、まったく違いはない。
同じである」
テレビ局が同じなら、各家庭のテレビが、大・小、新・旧、異なっても、
放送内容が変わるはずがない、のにたとえられよう。
「他力の信心」 が語られるとき、
「獲得する」 とか 「獲る」 「得た」 などと表現されるのも、
阿弥陀仏からたまわる信心 だからである。
誤りやすいところを最後に、こう懇ろにさとされる。
「この法然の信心は、智恵や学問などとは関係ない他力の信心なのだ。
自力の信心の人は私の参る浄土へは往けないであろう。
“自力の信心” と “他力の信心” の違いを、
よくよく心得ていなければならないよ」
苦悩の根元が打ち破られて
“よくぞ人間に生まれたものぞ”
と、人生の目的が達成できるのは、
ひとえに弥陀よりたまわる信心による、と知らされる。
論争までして勇敢に、 「他力の信心」 の世界を露出された親鸞聖人は、
つぎのようにも記される。
凡・聖・逆・謗、ひとしく廻入すれば、
衆水の海に入りて一味なるがごとし
(『教行信証』)

「他力の信心を獲得 (ひとしく廻入) し、人生の目的が完成すれば、
万川の水が海に入って一味になるように、才能の有無、健常者・障害者、
人種や職業・貧富の違いなどとは関係なく、すべての人が、
同じよろこびの世界に共生できるのだよ」
人生の目的は万人共通である、
と説く親鸞聖人の明白な言葉であろう。
★★★



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