親鸞聖人の報恩講2
2014.10.19
2014年10月19日(日) 74.6 kg 21.3 %
ここんとこ、社内資格試験の勉強を優先しておりまして、
本日、試験でした。
予想通り、すごく難しい試験でした。
私自身、努力が足りず、合格できそうにありません。
因果の道理に狂いなし!
反省、反省。。。
=== 今日の一日一訓 ===
明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは
「明日がある」と思っている人ばかり。
死は突然にしかやってきません。
急ぐべきは、後生の一大事の解決です。
親鸞聖人の教えを学んでいます。
報恩講でお聞きした 「御正忌の御文章」
について続けます。
蓮如上人は、繰り返し、繰り返し、
信心獲得 (しんじん ぎゃくとく)
することが、親鸞聖人の御恩に報いることだ、
と教えておられます。
「信心獲得」 とは、どういうことか。
よく知らねばなりません。
よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。
★★★

★★★
信心獲得 (しんじん ぎゃくとく)
「獲得」 は、世間一般では 「かくとく」 と読みますが、
仏教では、同じ字を書いて、 「ぎゃくとく」 と読みます。
まず 「信心」 について。
一般的に 「信心」 といえば、
私の心で何かを信ずることを 「信心」 といいます。
エホバの神を信ずるとか、
アラーの神を信ずるとか。
いろいろな宗教がありますが、
どの宗教もこの 「心」 は、
「人間の心」 「私の心」 です。
ところが、 「信心獲得」 の 「信心」 は、
人間の心でなにかを信ずることではありません。
全く異なります。
では、信心獲得の 「信心」 とは何か。
蓮如上人が教えておられます。
信心獲得の 「信心」 は、
「まことのこころ」 と読むのであり、
「凡夫自力の迷心」 ではない、
まったく 「仏心」 である。
「凡夫」 とは、 人間のこと。
人間の心を 「自力の迷心」 とおっしゃり、
迷った心だと教えておられます。
「凡夫」 すなわち人間とはどのようなものか。
親鸞聖人にお聞きしましょう。
凡夫すなわち人間とは、
煩悩のかたまり、煩悩が身に満ち満ちて、
欲も多く、怒り、腹立ちの心いっぱいで、
そねみ・ねたむ心が多く、絶え間ない。
そんな欲や怒りや愚痴の煩悩が、
臨終の一念、つまり死ぬまでなくならない。
止まらず、消えず、絶えず。
そんな煩悩のかたまりが人間だから、
私たち人間の心は迷いの心である、
と教えておられます。
信心獲得の 「信心」 は、
その人間の迷った心ではない、と。
私が自分で起こす迷った心ではない、と。
ではなにか。
「まことのこころ」 であり、
まったく 「仏心」 である、と。
「仏心」 とは、 「阿弥陀仏の心」 のこと。
信心獲得の 「信心」 とは、 「阿弥陀仏の心」 です。
私が自分で起こす信心ではなく、
阿弥陀仏から頂く信心です。
阿弥陀仏から賜る信心です。
阿弥陀仏の心は、 「大慈悲心」 です。
阿弥陀仏の大慈悲心によって建てられた願いを、
「阿弥陀仏の本願」 といいます。
阿弥陀仏は、大慈悲心で願いを建てられました。
それが 「阿弥陀仏の本願」。
本願とは 「誓願」 ともいい、約束のこと。
どのような約束をなされているか。
わかりやすい言葉でいうと、
「どんな人も 聞く一つで、
必ず絶対の幸福に助けてみせる」
これが 阿弥陀仏の本願 です。
続きはまた次回。
★★★

ここんとこ、社内資格試験の勉強を優先しておりまして、
本日、試験でした。
予想通り、すごく難しい試験でした。
私自身、努力が足りず、合格できそうにありません。
因果の道理に狂いなし!
反省、反省。。。
=== 今日の一日一訓 ===
明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは
「明日がある」と思っている人ばかり。
死は突然にしかやってきません。
急ぐべきは、後生の一大事の解決です。
親鸞聖人の教えを学んでいます。
報恩講でお聞きした 「御正忌の御文章」
について続けます。
蓮如上人は、繰り返し、繰り返し、
信心獲得 (しんじん ぎゃくとく)
することが、親鸞聖人の御恩に報いることだ、
と教えておられます。
「信心獲得」 とは、どういうことか。
よく知らねばなりません。
よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。
★★★



★★★
信心獲得 (しんじん ぎゃくとく)
「獲得」 は、世間一般では 「かくとく」 と読みますが、
仏教では、同じ字を書いて、 「ぎゃくとく」 と読みます。
まず 「信心」 について。
一般的に 「信心」 といえば、
私の心で何かを信ずることを 「信心」 といいます。
エホバの神を信ずるとか、
アラーの神を信ずるとか。
いろいろな宗教がありますが、
どの宗教もこの 「心」 は、
「人間の心」 「私の心」 です。
ところが、 「信心獲得」 の 「信心」 は、
人間の心でなにかを信ずることではありません。
全く異なります。
では、信心獲得の 「信心」 とは何か。
蓮如上人が教えておられます。
信心といえる二字をば 「まことのこころ」 と読めるなり。 「まことのこころ」 と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず、まったく 「仏心」 なり。
(帖外御文/蓮如上人)
信心獲得の 「信心」 は、
「まことのこころ」 と読むのであり、
「凡夫自力の迷心」 ではない、
まったく 「仏心」 である。
「凡夫」 とは、 人間のこと。
人間の心を 「自力の迷心」 とおっしゃり、
迷った心だと教えておられます。
「凡夫」 すなわち人間とはどのようなものか。
親鸞聖人にお聞きしましょう。
「凡夫」 というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで、止まらず消えず絶えず。
(一念多念証文)
凡夫すなわち人間とは、
煩悩のかたまり、煩悩が身に満ち満ちて、
欲も多く、怒り、腹立ちの心いっぱいで、
そねみ・ねたむ心が多く、絶え間ない。
そんな欲や怒りや愚痴の煩悩が、
臨終の一念、つまり死ぬまでなくならない。
止まらず、消えず、絶えず。
そんな煩悩のかたまりが人間だから、
私たち人間の心は迷いの心である、
と教えておられます。
信心獲得の 「信心」 は、
その人間の迷った心ではない、と。
私が自分で起こす迷った心ではない、と。
ではなにか。
「まことのこころ」 であり、
まったく 「仏心」 である、と。
「仏心」 とは、 「阿弥陀仏の心」 のこと。
信心獲得の 「信心」 とは、 「阿弥陀仏の心」 です。
私が自分で起こす信心ではなく、
阿弥陀仏から頂く信心です。
阿弥陀仏から賜る信心です。
阿弥陀仏の心は、 「大慈悲心」 です。
阿弥陀仏の大慈悲心によって建てられた願いを、
「阿弥陀仏の本願」 といいます。
阿弥陀仏は、大慈悲心で願いを建てられました。
それが 「阿弥陀仏の本願」。
本願とは 「誓願」 ともいい、約束のこと。
どのような約束をなされているか。
わかりやすい言葉でいうと、
「どんな人も 聞く一つで、
必ず絶対の幸福に助けてみせる」
これが 阿弥陀仏の本願 です。
続きはまた次回。
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