世の常識を覆す 「信じて」 の真意
2011.07.19
2011年7月19日(火) 70.2kg 20.3%

なでしこジャパン、Wカップ優勝おめでとう!!
夜中に起きて、ぜんぶ生中継で観てました。
アメリカ強い。。。厳しいと思ったけど、ジャパンもすごい。
取られたら、取り返す。決してあきらめない。
感動しました。
ありがとう。
引っ越し先の住居探索は、
シンガポール不動産バブルにて、苦戦中。。。(><)
=== 今日の一日一訓 ===
他人に親切した時、私が、誰々に、何々を、
この三つを忘れるようにしよう。
お釈迦様が仰っていられます。
“幸せになりたければ、相手に与えることだけ考えなさい。
もらうこと、取ることばかり考えていたら不幸になりますよ”
『正信偈』 親鸞聖人のみ教えを学んでいます。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて
往生をば遂ぐるなり」 と信じて、
「念仏申さん」 と思いたつ心のおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
(歎異抄第一章)
この 「信じて」 について聞かせていただきましょう。
よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。
★★★

★★★
<意訳>
“すべての衆生を救う” という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、
疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、
念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、
摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
『歎異抄』 第一章の 「信じて」 とは、どういう意味か。
「難しい専門用語や古語ではないんだから、
説明しなくても分かるよ」
と思われるかもしれませんが、実は、ここが大切なところなのです。
この 「信じて」 を理解するために、
まず、知っていただきたいことがあります。
それは、親鸞聖人のおっしゃる 「信じる」 と、
一般に使われている 「信じる」 とは、
言葉は同じでも、意味が全く違うということです。
どういうことでしょうか。
まず、私たちが日常、使っている 「信じる」 の意味について
考えてみましょう。
「“信じる” とは、 “疑う” の反対なんだから、
疑っていないということだろう」
そんな言葉に、うなずく人は多いでしょう。
しかし、よく考えてみますと、
疑う余地のないことは、信じる必要もありません。
まさか、
「夫は男だと信じている」
と言う奥さんはいないでしょう。
疑いが全くないからです。
火に触ってひどい火傷をした人は、
「火は熱いものだと信じている」
とは言いません。
実際に経験して、火が熱いことを知っているからです。
「火は熱いと信じている」
と言うのは、火に触れたことがない人です。
“火は熱いと聞いているから、そうなのだろう”
と信じているのです。
天気予報を見て、
「明日は晴れだと信じている」
と言うのは、明日になってみなければ、
本当に晴れるかどうかハッキリしないからです。
私たちが 「信じる」 のは、ハッキリしない、
疑いの心がある時なのです。
疑う余地が皆無のことは、
「知っている」
と言います。
昨日の天気なら、
「昨日は雨だったと知っている」
と断言します。
雨に降られてずぶぬれになったのに、
「昨日は雨だったと信じている」
などと言う人はいないでしょう。
そうすると、私たちが 「信じる」 と言うのは、
実は 「疑っている」 ということになります。
ここは大事なところです。
「信じる」 といえば、疑わないこと、というのが常識になっていますが、
私たちは、疑いがある、ハッキリしていないことを、
疑いの心を抑えて、信じているのです。
疑う余地の全くないことは、信じる必要もありませんから、
「知っている」 と言います。
いかがでしょう。
まずは、ここをよく知ってから、次に進みましょう。
続きは、次回。
★★★


なでしこジャパン、Wカップ優勝おめでとう!!
夜中に起きて、ぜんぶ生中継で観てました。
アメリカ強い。。。厳しいと思ったけど、ジャパンもすごい。
取られたら、取り返す。決してあきらめない。
感動しました。
ありがとう。
引っ越し先の住居探索は、
シンガポール不動産バブルにて、苦戦中。。。(><)
=== 今日の一日一訓 ===
他人に親切した時、私が、誰々に、何々を、
この三つを忘れるようにしよう。
お釈迦様が仰っていられます。
“幸せになりたければ、相手に与えることだけ考えなさい。
もらうこと、取ることばかり考えていたら不幸になりますよ”
『正信偈』 親鸞聖人のみ教えを学んでいます。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて
往生をば遂ぐるなり」 と信じて、
「念仏申さん」 と思いたつ心のおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
(歎異抄第一章)
この 「信じて」 について聞かせていただきましょう。
よろしければ下の 続きを読む をクリックして、続きを読んで下さいませ。
★★★



★★★
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて
往生をば遂ぐるなり」 と信じて、
「念仏申さん」 と思いたつ心のおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ
たまうなり。
(歎異抄第一章)
<意訳>
“すべての衆生を救う” という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、
疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、
念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、
摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
『歎異抄』 第一章の 「信じて」 とは、どういう意味か。
「難しい専門用語や古語ではないんだから、
説明しなくても分かるよ」
と思われるかもしれませんが、実は、ここが大切なところなのです。
この 「信じて」 を理解するために、
まず、知っていただきたいことがあります。
それは、親鸞聖人のおっしゃる 「信じる」 と、
一般に使われている 「信じる」 とは、
言葉は同じでも、意味が全く違うということです。
どういうことでしょうか。
まず、私たちが日常、使っている 「信じる」 の意味について
考えてみましょう。
「“信じる” とは、 “疑う” の反対なんだから、
疑っていないということだろう」
そんな言葉に、うなずく人は多いでしょう。
しかし、よく考えてみますと、
疑う余地のないことは、信じる必要もありません。
まさか、
「夫は男だと信じている」
と言う奥さんはいないでしょう。
疑いが全くないからです。
火に触ってひどい火傷をした人は、
「火は熱いものだと信じている」
とは言いません。
実際に経験して、火が熱いことを知っているからです。
「火は熱いと信じている」
と言うのは、火に触れたことがない人です。
“火は熱いと聞いているから、そうなのだろう”
と信じているのです。
天気予報を見て、
「明日は晴れだと信じている」
と言うのは、明日になってみなければ、
本当に晴れるかどうかハッキリしないからです。
私たちが 「信じる」 のは、ハッキリしない、
疑いの心がある時なのです。
疑う余地が皆無のことは、
「知っている」
と言います。
昨日の天気なら、
「昨日は雨だったと知っている」
と断言します。
雨に降られてずぶぬれになったのに、
「昨日は雨だったと信じている」
などと言う人はいないでしょう。
そうすると、私たちが 「信じる」 と言うのは、
実は 「疑っている」 ということになります。
ここは大事なところです。
「信じる」 といえば、疑わないこと、というのが常識になっていますが、
私たちは、疑いがある、ハッキリしていないことを、
疑いの心を抑えて、信じているのです。
疑う余地の全くないことは、信じる必要もありませんから、
「知っている」 と言います。
いかがでしょう。
まずは、ここをよく知ってから、次に進みましょう。
続きは、次回。
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